トップページ > セルフケア防衛の働き
自己の「進歩した部分-対-退行した部分」の神話化されたイメージはともに、こころの元型的セルフケア・システムと呼ぶものを作っている。このシステムは、こころの自己保存力のある操作が太古的で典型的なところから、また、普通の自我防衛より早期で原始的なところから、元型的である。セルフケア・システムは自己調節器であり内的/外的調整機能なのだが、普通の状況では、個人の自我によって果たされる機能である。一度トラウマ防衛が組織されると、外の世界との関係はすべてセルフケア・システムに遮られる。さらなるトラウマへの防衛として意図されたものによって、この世界でのそれほどくったくのない自己表現も、大きな抵抗に遭う。人は生き残るが、創造的には生きられない。そこで心理療法が必要となるのである。
彼らは内的な人物像の虜になっていて、その人物像が患者を取られまいと外界から切り離し、同時に一方では、無慈悲な自己批判と虐待で彼らを攻撃している、ということだった。そのうえこの内的人物像は非常に強力な威力なので、それを性格づけるのにダイモン的という言葉が適切であると思われた。夢ではときおり、この内なるダイモン的人物像が、夢自我を、あるいは夢自我が同一化されているセルフの無垢な部分を盛んに攻撃することで、内的世界を暴力的に分断していた。またあるときには、現実から乱暴に切り離された、患者の断片的で傷つきやすい部分を、あたかも再び暴行を加えられることから守るかのように包み込むことが、その目的であるようにも見えた。さらに、別なときにはダイモン的存在は、一種の守護天使であり、自己の子どものような部分を内側で慰め、守り、同時に世界から恥ずべきものとして隠していた。それはときどき行ったり来たり相互に役割を替えながら、保護的あるいは迫害的な役を演じることができた。さらに複雑なことに、通常この二重のイメージは、ジェイムズ・ヒルマンがダンデムとよぶ外観を呈していた。それは通常一人では現れず、内的な子どもか、他のもっと無力で傷つきやすいパートナーとともに現れた。この無垢の子どもは代わる代わるに二重の状況になった。あるときは悪い子とされ、いわば迫害に値し、また別のときは良い子として保護が受けられたのだ。要するに、これらの二重のイメージは、内的な構造としてつながりあっており、元型的セルフケア・システムと呼ばれるものを作り上げている。この構造は、こころにある普遍的な内なるシステムであり、その役割は、個人の本当の自分の中心にあって冒すことのできないパーソナル・スピリット(個人の精神)の保護と保存にある。
原初の関係がトラウマによって邪魔されるならば、ヌミノースなものは恐ろしい母テリブル・マザーとして否定的に布置され、結果として悪いものと見なされ、災難や悲運の刻印を押された悲痛な自我が残る。妨害された原初の関係の主要な特徴は、根源的な罪悪感である。愛されない子どもは、異常であり、病んでおり、「有罪宣告を受けている」と感じる。こうした「悪く、きたならしい」子どもペアを組むのが、ダイモン的男性的スピリット(父権的ウロボロス)であり、それは暴力的な超自我を表すのだが、いまやセルフ(自己)と混同されて、その要求には決して応えられない「悪い」子どもを絶えず攻撃するのである。母親の「欠陥」は自我ーセルフ(自己)軸の発達を損ない、それに相応して「否定的なセルフ像」つまり恐ろしい母テリブル・マザーのイメージへと導く。
原始的なかたちで防衛されている人々に存在する極端な否定性と自己破壊性は、見知らぬ侵入者と間違えられてしまった自我の部分部分に対しての原初的セルフ(自己)による攻撃として理解されるだろう。こころにしても同様、セルフの防衛においては、人格のある部分が非自己の要素であると間違えられ、攻撃され、一種のこころの自己免疫疾患(AIDS)にみられる自己破壊性へと至るのだ。早期に組織されると想像すると、その機能は、トラウマを与えた印象の世界に子どもが「触れようとすること」と結びついている経験や知覚のあらゆる要素を攻撃する。言い換えれば、セルフは、後年のあらゆる見込みをもつ自己と世界との関係における発達を、かつトラウマとなった子どもが「手を伸ばすこと」の新たな繰り返しだと取り違え、その結果、攻撃するのである。変わることへの、個性化への、心理療法への大きな抵抗として働く防衛がここにみられる。
フェレンツィが「亢進した」自己と呼んだものが早熟となり、あまりに早く発達し、精神(精神の完全主義的理想も含めて)に同一化するようになると。この完全主義的な「精神」は、内的な「精神対象」として人格化されるようになり、容赦ない欲求にどうしても着いていくことができない心身の自己を無慈悲に攻撃する。その結果は、うつであり、強迫性障害であり、さまざまなタイプのシゾイド的な引きこもりである。
大規模な破壊のメタファーとして、トラウマを一次過程(そこではトラウマの衝撃が、象徴を生じさせて思考を生じさせるイメージにうまく収められる)に供給される代わりに、驚くべき反転が起きる。達成したものはすべての元のトラウマの要素に解体され、処理されないままとなるのである。こころがあったかもしれないところに、生々しく永久に続くカタストロフィーが置き換わる。こころは(そこに何があれ構わず)、どんなに小さな体験可能性も恐ろしい無へと磨り潰してしまう「カタストロフ・マシーン」となる。
ダイモンの恋人は、有害な父娘コンプレックスから派出したものであり、ダイモンの恋人は内的誘惑者として機能し、その女性と外界のどんな現実の男性とのあいだにも割って入る。父ー恋人コンプレックスの中核には、彼女が崇め、また同時にあるレベルにおいて彼が彼女をその人生から誘い出すことを知っているゆえに彼女が憎む、父なる神がある。彼女が彼を崇めるのか憎むのかに違いはない。なぜなら、どちらの場合も彼女は彼に縛りつけられており、彼女自身が誰なのかを見出すためのエネルギーは無いのである。彼女が自分の愛情を空想化することができるかぎりは、父ー神の肯定的な側と同一化する。しかしながら、ひとたびその空想がつぶされると、彼女には自分を支える自我ないので、彼女は反対の極へと揺れ動き、そこで彼女に敵対することになった神の腕のなかで崩壊を体験するのである。
トラウマケア専門こころのえ相談室
更新:2020-06-29
論考 井上陽平
参考文献
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