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慢性自殺志向の内的現象:解離と分裂した自己の葛藤

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自殺願望を抱く人々は、解離と人格の分裂により、自分の一部が外部の脅威に対処し、もう一方が無力さに凍りつきます。彼らはしばしば、絶え間ない覚醒状態と内的葛藤に苦しみ、現実から逃れようとします。内面には強い怒りや復讐心を抱える「もう一人の自己」が存在し、それが自滅的な行動を引き起こします。結果的に、死は苦痛からの唯一の解放と感じられるようになるのです。

子どもの自己分裂と 生き延びるための無意識的な戦略


幼い子どもが繰り返し「生きるか死ぬか」という脅威にさらされる環境では、本来愛着によって育まれる弱くて甘えん坊な自己の部分が、外の世界に姿を現さなくなり、絶望感に支配されて無力化してしまうことがあります。その結果、その自己は心の奥深くで眠りにつくのです。しかし、日常生活の中で生き延びるために、子どもの心は痛みを分散させるための「身代わりの自己」や、過酷な状況に立ち向かうための「対抗する自己」を生み出し、必死に環境に適応していきます。この過程で、心の中には亀裂が入り、自己の各部分は分裂していくものの、やがて過酷な環境こそが「普通の日常」として認識されるようになります。

 

このように形成された自己の部分は、異常な環境に特化しているため、通常の世界に生きる人々とは全く異なる構造を持ち、社会に適応するのが難しくなります。時には、適応しすぎてしまい、過剰に自己を抑圧したり、逆に強すぎる自己を発揮してしまうこともあります。こうした防衛機制は、過酷な環境において生き延びるための無意識的な戦略ですが、通常の社会との間に大きな隔たりを生む要因となるのです。

虐待と神経発達の影響 ─ 繊細な子どもが抱えるリスク


発達早期に経験するトラウマにはさまざまな種類がありますが、特に幼少期からPTSDや解離症状を示す子どもや、神経発達に問題がある子どもは、周囲に「何かがおかしい」と感じられやすく、虐待を受けるリスクが高まります。このような子どもは、優しさを持ちながらも扱いづらいと見なされ、通常の子どもとは異なる対応をされがちです。彼らの神経は非常に繊細で、恐怖心が強く、孤独を感じやすい一方で、過剰に警戒し、周囲の刺激に敏感に反応してしまいます。その結果、体調を崩しやすくなり、日常の些細な出来事であっても、深く感情的に傷つき、トラウマ化してしまうことが少なくありません。このようにして、身体と心に蓄積された痛みは、やがて複雑性PTSDや重度の解離症状を引き起こし、原因不明の病気や身体症状として現れることがあります。

 

発達早期に問題を抱える子どもが虐待を受けると、過酷な体験があまりにも激しく、処理しきれないことが起こります。どれほど辛く、苦しい状況であっても、子どもは親に依存し、愛情を求め、親が「良い存在であってほしい」と願い続けます。しかし、虐待によって親子関係にかかるストレスが限界を超えると、子どもの身体は凍りつき、体と心が切り離されたような感覚に陥り、意識がぼんやりとしてしまいます。子どもは「親は悪くなく、自分が悪いから暴力を振るわれる」と自己を責める一方で、親の支配や暴力に対する恐怖から身体が何度も固まり、動けなくなって「死んだふり」をしてその場をやり過ごそうとします。

 

その一方で、受け入れがたい現実に対処するために、いくつかの防衛的な自己が現れることがあります。たとえば、頭を使って危険を回避しようとする部分、周囲に目を光らせて警戒を強める部分、痛みを引き受けて犠牲になる部分、そして攻撃や非難に対して反撃や怒りを爆発させる部分です。こうして、子どもは内面で自己を分裂させながら、虐待の現実に耐えようとするのです。

サディスティックな超自我 ─ トラウマが作る内面的な虐待のループ


理不尽な親の振る舞いや学校社会の不条理に直面し、居場所を失った子どもは、相手を許すことができず、復讐したいという強い感情に駆られることがあります。しかし、自暴自棄からくる怒りの爆発や反撃しようとする衝動は、さらなる虐待や厳しい罰を招きやすくなります。特に思春期に入り体が成長すると、その攻撃性は人を傷つける危険性が増し、自らも犯罪行為に巻き込まれるリスクが高まります。

 

不遇な環境で育つ子どもは、成長とともに自意識が強まり、社会の不条理に対する理解が深まるにつれて、親や社会に対する許せない思いがさらに強くなります。こうして、変えることのできない現実への怒りが蓄積し、ついには現実そのものを拒絶するようになってしまうのです。

 

トラウマによって人格構造が解離した子どもは、成長するにつれて理性や思いやりを持つようになりますが、その一方で、やり場のない怒りや攻撃への反撃の衝動を持つ危険な部分も同時に育っていきます。この危険な側面は、心の奥深くに閉じ込められ、頑丈な鍵がかかった地下牢に封じ込めるほかありません。しかし、この危険な自己は日常を過ごす「私」の背後から常に見張っており、大きな精神的ショックを受けるたびに変性意識状態を通じて現れ、自傷行為を繰り返します。やがて、その部分は善良さを失い、悪魔的な人物像(サディスティックな超自我)へと変貌していくことがあります。

 

この悪魔的な側面は、エドモンド・バーグラーの言葉を借りれば、日常の私に取り憑き、善良さは完全に欠如し、まるで逃げ場のない責め苦を与える怪物のようです。こうして、無力感に支配されたマゾヒスティックな自我は、一生にわたる内面的な虐待と自己攻撃のループに囚われていくのです。

内なる悪魔との闘い ─ トラウマが生むもう一人の「私」


被害者であるもう一人の「私」、すなわち悪魔的人物像は、加害者と同一化し、強烈な感情と生存本能を持ち合わせています。この「もう一人の私」は、被害者の心に侵入し、悪夢や恐怖を引き起こし、心身を蝕んでいきます。虐待やいじめ、性暴力を経験した人たち、自己愛性障害や境界性人格障害、シゾイド、解離性同一性障害、統合失調症を抱える人々の病理は、しばしばこの内なる悪魔的な「もう一人の私」が具現化したものです。

 

患者はこの内なる「私」と長い年月にわたって闘い、自分ではない自分の行動や言動に疲弊します。その結果、周囲に誤解され孤立し、何も言えないまま絶望的な気持ちに陥っていきます。やがて、自分が「人間の皮を被った悪魔」ではないかと感じ、感情や行動が制御できない自分に対して死にたいと思うこともあります。

 

このもう一人の「私」は、リストカットや暴力、SNSでの虚偽投稿、他者を性的に誘惑する行動、そしてわざといじめられるような問題行動を引き起こし、周囲を混乱させます。二つの魂と二つの記憶が一つの身体の中でせめぎ合い、一方が他方を通して皮膚や肉体を傷つけ、拷問や虐待の形で表現されることがあります。

慢性自殺志向の内的現象

自殺願望の内的世界 ─ 解離と人格の分裂


現代クライン派の精神分析家デイヴィット・ベルの「自殺の内的現象学」を参考に、自殺を望む人々の内面を探ります。自殺願望を抱く人は、強い解離によって人格構造に断裂が生じています。その一方は、あたかも正常に日常を過ごすかのように見せながらも、暴言や暴力に直面すると恐怖で凍りつき、思考が真っ白になり、行動のコントロールを失います。このため、知らぬ間に他人を巻き込んでしまい、トラウマや解離の影響で、普通の生活を送ることができず、記憶が途切れ途切れになる人生を生きることになります。

 

もう一方の自己は、さらに二つの側面を持っています。一つ目は、日常の私が外傷体験に曝されたとき、気を失ってしまうのを防ぐため、身代わりとして犠牲になる部分です。二つ目は、交感神経や背側迷走神経に支配され、常に過剰な覚醒状態にあり、攻撃への反撃や、抑えきれない怒りを爆発させる部分です。この二つの側面が繰り返し現れることで、内面の葛藤が激化し、自殺への衝動が強まっていくのです。

1.理想化 された世界の依存─ 死を救いと感じる心


虐待や過酷な状況において、あたかも正常に日常を過ごしているかのように振る舞う「私」は、正常な生活を送ることに固執し、理想化された良い対象との一体感や精神性・霊性を求めています。その一方で、暴力的な状況に対抗するための「野蛮な身体の部分」は心から切り離され、見えない理想化された母性的な存在に強く引かれるようになります。こうした心の状態により、現実世界ではなく「もう一つの世界」が自分の本当の居場所と感じられ、そこには自分を待つ家族がいて、再会できることを楽しみにするようになります。

 

この心性は、目に見えないものを慕う気持ちから生まれ、通常の人々とは異なる死生観を持つようになります。そして、現実の苦しみから逃れたいという願望が高まると、死そのものが救いだと感じることもあるのです。

2.自殺願望の深層 ─ 緊張と恐怖が生み出す自己破壊行動


生きるか死ぬかの過酷な状況下では、身体は常に緊張状態にあり、警戒心が過剰になります。脅威を探るために視覚や聴覚の感覚が研ぎ澄まされ、少しでも敵を発見すると、その対象を凝視したり、逆に目をそらしたりして、恐怖で凍りつくか、過度に覚醒した興奮状態に陥ります。このような状況が長く続くと、自律神経システムは次第に破壊され、外部の脅威だけでなく、自分の身体の生理的な反応にさえ恐怖を感じるようになり、自身の身体が敵であるかのように混乱するようになります。

 

自殺行為に走る身体は、耐え難い痛み、恐怖、怒り、憎しみ、暴力性、無力感、醜さ、恥、汚れ、孤独、絶望などと結びついています。自殺は、こうした耐え難い感情や存在を排除し、完璧で理想的な存在との結合を求める自己破壊的な行動といえるのです。

3.身体の凍りつき ─ 内外の脅威に追い詰められた心の葛藤


トラウマによる「凍りつき」状態は、正常な身体の働きを妨げ、内部に大量のエネルギーが滞ります。このエネルギーが体内に留まり続けると、原始的な神経系が活性化し、さまざまな身体症状を引き起こします。人はこの内部の混乱を外部に投影するようになり、外的な現実を常に潜在的な脅威として捉え始めます。その結果、身体内部と外部の境界が曖昧になり、現実を正確に判断する力が失われてしまいます。

 

こうして、物事を「敵か味方か」という極端な二分思考に陥り、外の世界に対して常に警戒し緊張し続けます。嫌悪感やストレスを感じると、闘争反応が起こるものの、同時に身体内部からも攻撃を受けているように感じ、無数の目に見えない脅威と戦うことになります。身体の過敏さと外部の気配に対する過剰な反応、視線恐怖や対人恐怖が組み合わさり、過度な自意識に支配され、内外の攻撃にさらされていると感じるようになります。これにより、被害妄想が膨らみ、精神的に追い詰められて逃げ場を失い、自分の存在が危機に瀕していると感じるようになります。

 

その結果、人間関係はうまくいかず、この世界が悪意に満ちていると感じるようになり、自分を救う方法が見えなくなってしまい、自殺を考えるようになるのです。

4.自殺願望の裏に潜む内なる悪魔 ─ 迫害者への服従


自殺を望む人の内的世界には、犠牲者となった人格の部分と、太古的な悪魔的人物像(迫害者人格)が存在しています。この悪魔的人物像は、日常を過ごす「私」の背後に潜み、常に監視しているかのように感じられます。過去の忘れられない嫌な記憶が蘇ると、突然吐き気や胸の痛み、憎しみ、震え、鳥肌、寒気、身体の捩じれ、そしてバラバラになるような恐怖に襲われるのです。このとき、悪魔的人物像は、自分を痛めつける幻聴として現れ、強い力で「私」を支配しようとします。

 

さらに、日常生活の中でほんの些細なミスをしただけでも、悪魔的人物像は唸り声をあげ、「倍返しで痛みを与えてやる」と脅迫します。そのため、恐怖と怯えに震え、心身が支配されてしまうのです。最終的に、自殺はこの悪魔的人物像への服従であり、同時にその苦しみからの解放であると感じられるようになります。

5.内なる悪魔と絶望 ─ 破壊衝動と自殺願望の葛藤


日常を過ごす「私」は、病気に負けず幸福や喜びを求めようと努力していても、内なる悪魔的人物像(迫害者人格)は、醜い思考を抱え、強い怒りと怨念を蓄えています。この悪魔的人格は世界を憎み、人間を嫌悪し、復讐を望む一方で、さらに痛みを求め、他者や自分に痛みを与えることで混乱や苦悩を生み続けます。

 

生きようと決意した瞬間、この悪魔的人物像が再び姿を現し、私を地獄に引きずり込むかのように感じられます。こうした繰り返しの中で、ついに耐えられなくなり、自殺を望むようになります。自殺は、この恐ろしい悪魔的な破壊衝動や攻撃性に逆らうことの困難さに絶望し、世界を救うために自らを犠牲にしようとする、究極の自己破壊行動であると言えるのです。

6.内なる悪魔と親への復讐 ─ 自殺願望と希望の消失


日常を過ごす「私」は、自殺によって現実の両親に多大な苦痛を与えることを恐れていますが、悪魔的人物像(迫害者人格)は逆に、その苦痛を望んでいます。私が幸福に近づく瞬間、悪魔は必ず現れてその希望を打ち砕き、絶望の淵へと追いやります。こうして、生きることへの希望が完全に失われ、両親や周囲への復讐として自殺を望むようになるのです。

 

また、私が親への愛情を空想の中で保っているうちは、まだ何とか保たれますが、その空想が崩れると、どちらが本当の自分かもわからなくなり、自殺という行動を選んでしまうことがあります。このように、内なる悪魔と日常を過ごす自分との間で揺れ動く葛藤が、絶望と自己破壊への道をさらに強くしてしまうのです。

7.大切な人を失う恐怖 ─ 自殺願望と虚無感の中で


自殺を望む者は、いくら頑張っても、もう二度と振り向いてくれないという痛みを突きつけてくる人物――親、恋人、配偶者、子どもなど――に囚われています。彼らは、自分の存在よりも他者の存在が大きくなり、人から必要とされることが唯一の心の支えとなります。しかし、そんな大切な人との幸せな生活や、自分の居場所を失う危機が迫り、いくら努力しても報われず、話し合っても理解されないという切迫した状況が続くと、次第に精神的に追い詰められ、やがて死にたいという絶望的な感情に苛まれます。

 

大切な人を失い、元の生活に戻れなくなったとき、すべてが崩れ去り、自分の生きる意味さえも消えてしまいます。その後は、どうしようもない叫びを心に抱えながら自分に向き合っても、ただ虚しさが残り、現実世界への絶望から身動きが取れなくなってしまいます。大切な人がいなくなった後、友達も家族もおらず、孤独に包まれた毎日が続き、虚無感に囚われ、自分を回復させる方法すら見つけられなくなってしまうのです。

8.凍りつく心と暴走する衝動 ─ 自己否定の悪循環


自殺を望む者は、痛みで心身が凍りつき、筋肉が極度に弛緩して身動きがとれない異常な状態に陥ります。このとき、頭(心)は体から切り離されたように感じ、頭の中では思考がグルグルと回り続け、悩みが募り、混乱が深まります。不快な状況に置かれると、緊張が高まり、筋肉が硬直し、息が詰まり、胸の痛みや手足の勝手な動き、さらには頭が爆発しそうな感覚に襲われます。

 

こうした状況では、衝動を制御できず、絶望に打ちひしがれて自暴自棄な行動に走ってしまうこともあります。その後、自分の取った行動に対して強く自責の念を抱き、自己否定がさらに強くなり、悪循環に陥ってしまうのです。この自己否定のループが続くことで、精神的に追い詰められ、自殺願望が強まっていくのです。

9.自己破壊の衝動と内なる攻撃性 ─ コントロール不能な感情


日常を過ごす「私」は、自分の感情や行動をコントロールすることが難しく、過覚醒状態にある闘争心や挑発的な行動、そして「死んだふり」から一瞬で攻撃に転じる部分を制御できないことに悩んでいます。この攻撃的な側面が原因で、大切な人を巻き込んでしまうことを恐れ、実際に人間関係をことごとく失敗させてしまった過去に後悔しています。記憶がない間に人を傷つけてしまった経験もあり、その結果、誰にも迷惑をかけたくないという思いから、自分の存在を消そうと何度も試みます。

 

さらに、自分の中にある攻撃性は、実は自分に危害を加えてきた他者によって植え付けられたもので、自分自身のものではないと感じています。そのため、怒りや嫉妬、憎しみといった感情に対して自己嫌悪を抱き、これらの感情を否定します。最終的に、自殺はこの耐え難い身体的・精神的苦痛からの唯一の解放だと感じてしまうのです。

10.絶望と虚無の中で ─ 自殺願望が生まれる身体と心の苦痛


自殺を望む者は、交感神経が過剰に働きながらも、背側迷走神経系が主導権を握っていることが多く、これはまるで動物が捕食者に捕まり、絶望の中で「死んだふり」をして身動きが取れない状態に似ています。追いつめられ、希死念慮にとらわれ、解決策が見つからず、まさに身動きが取れない状況が続きます。このような絶望的な状況が日々繰り返されると、感情や思考は行き詰まり、元気が無くなり、呼吸も困難に感じ、血圧は低下し、顔は青白く虚弱化していきます。

 

死にたいという気持ちが限界に達し、夜も眠れず、次第に感情が失われ、空虚な目つきになり、何も感じなくなります。やがて、すべての欲求が消え、生きる意味がわからなくなり、慢性的な虚無感に支配されていきます。この状態が続くと、出口が見えなくなり、現実に救いがないと感じ、恥や敗北感、無力感に打ちのめされ、自ら消えたい、楽になりたいと強く思うようになります。

 

さらに、身体の不調や肉体的な苦痛が加わり、動くことさえ困難になり、ベッドから起き上がることもできないと、何もできない自分が周囲に迷惑をかけているという感覚に耐えられなくなります。このように意識が狭まり、焦燥感が加わると、自殺への危険性が一層高まるのです。

11.自殺の静かな準備 ─ 心の中で進む絶望のプロセス


自殺には、周到な計画と準備が必要です。自殺を考えている人は、周囲に苦悩のサインを送ります。無力感に押しつぶされ、弱々しい声で助けを求めているように見えることもあります。彼らは心のどこかで、誰かが救いの手を差し伸べてくれることを期待しているのです。しかし、最終的に自殺を決意すると、その人は突然冷静になり、誰にも連絡をせず、何のサインも出さずに淡々と身辺整理を始めます。

 

死に向かうとき、心の中からすべての感情や色彩が消え去り、死への恐怖は不思議と感じなくなります。すべてが無機質に見え、自己陶酔に浸りながら、静かにその瞬間を迎えるのです。この静かな落ち着きが、逆に深い絶望の象徴とも言えるでしょう。

12.慢性自殺志向と現実からの解離─ 境界が曖昧になる心の崩壊


慢性自殺志向を抱える人が自殺を完遂してしまうとき、理性脳と情動脳のバランスが崩れています。理性的な自分は、苦境に陥り、出口のない状況に押しつぶされ、恐怖に凍りついてしまいます。その結果、情動脳に支配され、感情の起伏が激しくなり、自分自身のことさえもよく分からなくなってしまいます。離人感や解離の影響で足元がふわふわと浮いているように感じ、現実から乖離し、自分と外界との境界が消え去ります。やがて、自分は「自分」ではなくなり、まるで物体に変わってしまうような感覚に襲われます。

 

自殺の前触れとして、高い所に立つと下へ引き込まれるように感じ、駅では電車に、川では水に吸い込まれるような感覚が強まります。このような引き込まれる感覚は、外の世界と一体化していく兆しであり、自分自身を失う前段階なのです。

13.死の誘惑と自殺の瞬間 ─ 意識の曖昧さと身体の衝動


死ぬことは苦痛からの解放と感じ、自殺を考える人の頭の中は、死への思いで一色に染まります。死への恐怖が抑えきれず、過剰な覚醒状態が続く中で、身体が「早く死にたい」と動き出してしまいます。自殺を決意した瞬間、人は人生にうんざりし、思考は停止し、何も聞こえず、混乱の渦に巻き込まれます。もはや自分には救いがなく、すべてが嫌で苦しく、ただ楽に死にたい、消えたいという一心で、意識は狭まり、記憶も曖昧になります。

 

このような状態では、自分が何をしているのかも分からず、気がつけば柵に手をかけていたり、ホームの端に立っていたりします。飛び降り自殺をする際、まるで何者かに取り憑かれたように、身体が勝手に動き出し、本来の自分は身体から少し離れた位置で、その光景を見ているように感じることがあります。そして、衝突する直前に、自分に憑りついていたものが消えると感じることがあるのです。この現象は、死の瞬間に至る過程の中で、意識と身体が乖離していくことを示しています。

まとめ


解離によって日常の困難を乗り越える人もいますが、これが悪魔的に作用すると、被害に遭った部分は痛みに閉じ込められ、強烈な怒りを抱えることになります。この内的な悪魔的人物像は、日常生活で希望を打ち砕く存在となり、自滅的な行動を引き起こします。自分の人生が他者によって制御されているかのように感じ、恋愛や家庭を持つという一般的な願望も失われてしまいます。たとえ一時的に希望を抱いても、繰り返される地獄のような状況によって、最終的には大切な人との関係が終わりを迎えてしまいます。

 

この結果、再び誰かを傷つけることを避け、幸せになってはいけないという感覚にとらわれます。苦しみの中であえぐ人にとって、死は逃避ではなく、苦痛からの唯一の解放と感じられるのです。特に、大切な人との関係が完全に終わったり、肉体的な苦痛から逃れられず、過去の辛い記憶やフラッシュバックに苦しみ続けると、動けなくなり、限界を迎えます。自殺は、トラウマや解離によって自分が異常であると感じ、他者にこれ以上迷惑をかけたくないという思いから、最終的に自分自身を絶つ行為へと至るのです。

  

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論考 井上陽平