第1節.
ポリヴェーガル理論は、トラウマを扱うセラピストだけでなく、一般の方にも非常に有用な理論です。適度に配慮された環境で育った子どもは、社会交流システムの腹側迷走神経の働きによって、外の世界と豊かな人間関係を築き、喜びを見つけることができます。しかし、虐待やネグレクト、慢性的なトラウマにさらされた子どもは、防御的な姿勢を取るようになり、その結果、通常とは異なる神経系が働き始め、世界を不安や恐怖の目で見るようになります。
トラウマを経験した人の多くは、交感神経と背側迷走神経の影響を強く受け、常に防衛的な態度を取るようになります。これにより、外の世界との交流が非常に難しくなることがあります。特に、幼少期から複雑なトラウマを抱えた子どもたちを観察すると、彼らが無意識のうちに神経系の働きに支配されている様子が明確に見て取れます。このような理解は、トラウマに苦しむ人々へのアプローチにおいて重要な手がかりとなるでしょう。
第2節.
ポリヴェーガル理論(多重迷走神経理論)は1995年ステファン・ポージェス博士によって発表された神経系の理論です。人間の神経系は、中枢神経系と末梢神経系から構成されており、末梢神経系は、中枢神経系から全身に張り巡らされ、身体の各部と連絡しています。末梢神経系には、自律神経系と体性神経系があります。
今までは、人間の自律神経系の働きは交感神経と副交感神経という2系統で説明されてきましたが、それぞれに対極的な役割があり、それらが相互に作用して、心と体のバランスを維持します。この理論が、従来の自律神経系の理論と違う点は、人類の進化の過程から副交感神経に含まれる2つの迷走神経の働きを見つけたことです。副交感神経には、延髄の腹側(ヒトでは前側のこと)から出力する、社会的交流の働きを司る腹側迷走神経と、延髄の背側(ヒトでは後側のこと)から出力する、原始的な動きを支配する背側迷走神経があります。このそれぞれを中心に腹側迷走神経複合体、背側迷走神経複合体という異なる機能をもつ2つのシステムを形成しているとされます。
第3節.
この発見により、自律神経系には、3系統の神経システムがあります。
①背側迷走神経 低覚醒システム(不動化や凍りつきなど解離反応を起こす)魚類に由来
②交感神経 過覚醒システム(闘争か逃走をサポートする)は虫類時代の進化
③腹側迷走神経 社会交流システム(落ち着きやリラックスなど社会的つながりを促進する)ほ乳類のみ
トラウマ治療のソマティック・エクスぺリエンシングを開発したピーター・ラヴィーン博士がポージェス理論についてまとめているので一部載せます。 ポージェスの理論では、ヒトの場合、三つの基礎的神経エネルギーのサブシステムが神経系とそれに相関する行動、情動の総合的状態の素地になるとしている。
この3つのうち最も原始的な(約5億年前の)ものは、初期の魚類に由来する。この原始的システムの機能は不動化、代謝維持、シャットダウンである。活動の対象は内臓である。
背側迷走神経が過剰になり、凍りつきや死んだふりの不動状態になっている時は、解離やシャットダウンが起きて、呼吸は非常に浅く、息が止まりかけています。安静時で心拍数が50台になり、虚脱状態では40台まで下がることもあります。瞳孔が非常に小さくなります。
進化の発達上、次にできたのは交感神経系である。この全身覚醒系は約3億年前のは虫類時代には進化した。その機能は可動化および活動亢進(闘争か逃走など)であり、対象とするからだの部位は四肢である。
交感神経が覚醒している状態では、身体(四肢)を動かすために、大量の酸素が必要で、呼吸は浅く早く、胸上部の呼吸になります。安静時の心拍数が90から100以上になります。緊張が強く、瞳孔が大きく開き、血管は収縮し、心拍数は増加し、指は冷たくなり、白っぽさか青みがかった色になります。
最後に三番目の、系統発生的に最も新しいシステム(約8千万年前に遡る)は、ほ乳類にのみ存在する。この神経サブシステムが最も洗礼されているのは霊長類であり、複雑な社会的、愛着行動を支配する。これはいわゆるほ乳類の、または「高等な」迷走神経を調整する副交感神経系の分岐であり、神経解剖学的には、表情および発声を支配する脳神経に接続している。最後に獲得されたこのシステムは、他者や自己に情動を一体となって伝える、のど、顔、中耳、心臓、肺の筋肉を無意識的に支配する。最も洗練されたこのシステムは、関係性、愛着、絆を調整し、感情的知性も支配する。
副交感神経(人間の最も高次な神経)が働いているときは、深く自由に呼吸が出来て、腹部の呼吸になります。安静時の心拍数が60から90です。血管が弛緩し、拡張していくと、指は生き生きとしたピンク色になります。
第4節.
ポリヴェーガル理論は、魚類から爬虫類、そして哺乳類への進化の過程を通じて、人間の自律神経系を説明する生物学的な視点を提供します。従来の自律神経系の理解では、外傷体験による情動への影響や、身体が「凍りつく」反応や「死んだふり」、さらには解離状態に陥るメカニズムを十分に説明することが困難でした。しかし、この理論を通じて、自律神経系の働きを新たな視点から捉えることで、トラウマをより深く理解することが可能になりました。
ポリヴェーガル理論は、トラウマによって過覚醒や低覚醒の状態に陥っている人々が、社会交流システムを回復させるためのアプローチを科学的に裏付けています。具体的には、身体に働きかけるアプローチや、日常生活での臨床的な介入が有効であることが示されています。カウンセリングにおいても、クライアントの体と心の状態を観察し、神経系の働きを理解することで、より効果的なアプローチを選択することができるようになります。このような視点は、トラウマケアにおいて重要な役割を果たすと言えるでしょう。
参考文献
津田真人:『ポリヴェーガル理論を読む、からだ・こころ・社会』星和書店 2019年
ピーター・ラヴィーン『身体に閉じ込められたトラウマ』(池島良子、西村もゆ子、福井義一、牧野有可里 訳 )星和書店
トラウマケア専門こころのえ相談室
更新:2020-06-04
論考 井上陽平